[獄幻] 月の実在性と思考の自由性についての考察
2次創作2024.06.02 12:49

サイキックテニスを受けて書いたと記憶している獄幻。二年前。

無学無教養な人間が書いておりますので、誤っている箇所があるかも知れません。

 


 天国獄は出張先の東都での仕事を終え、シブヤの繁華街をぶらついていた。そろそろ日の沈む頃だ。適当にウィスキーの美味そうな店に入って、ひとりでゆっくりとした時間を過ごそうと考えていた。

「天国さん」

 声を掛けられて振り向くと、少し後ろの雑踏の中に見覚えのある和服姿の男が居た。誰であったかと考えていると、男は獄に近付いて来て丁寧にお辞儀をした。

「Fling Posseの夢野幻太郎です。丁度よい処でお会いしましたね。VRゲーム以来でしょうか」

 数ヶ月前、獄はチームメイトである四十物十四からヘッドセットを借りて、VRテニスゲームをプレイしたことがある。そのとき偶然にも決勝戦で対決したのが夢野であった。夢野とは直接ラップ対決をしたことはないから、VRテニスで初めてまともに相対したとも言える。獄は最後の最後まで必殺技を使わずにその威力を高め、強力な技を繰り出してくる夢野に勝利したのだった。尤も、使用しないことで必殺技が強化されることは知らなかったので、夢野に勝利したのは偶然のようなものである。

 その夢野が、今度は現実の肉体を持って獄の前で微笑んでいる。VRテニスの印象が残っている所為か、何処か奇妙な感じを受けた。とは云え、Fling Posseがシブヤのチームであり、此処はシブヤであるから、彼に遭遇してもおかしくはない。それにしても、丁度よい、とはどういうことだ。そんな獄の疑問を読み取ったのか、夢野はにっこりと笑みを浮かべて言った。

「一方向性の人間観察にも飽きました。反応が欲しかったのです。少しお話しませんか」

 物腰柔らかくも何処か強引な言い様である。

 ――そう云えば、こいつのラップのリリックは美しくてアイロニーに富んでいた。尚且つ芯の強い印象を受けたな。

 獄は2nd DRB決勝戦での彼のバトルの様子を想い起こした。そして、現在眼前に居る夢野の姿を見遣る。肌の色が白くて体も細い。女のようにも見受けられる容姿の彼が、あのような戦い振りを見せるとは信じられなかった。

 夢野は微笑みながら獄を見詰めている。観察されているように感ぜられた。

「それは俺があんたの人間観察の対象になると云うことか」

 夢野は頭を振って、「いいえ。先程も申し上げた通り、人間観察とは一方的なものなのですよ。小生が今欲しているのは、双方向的な人と人との温かいコミュニケーションです」

「あんたは嘘つきだと聞いている」

「混同されがちですが、嘘と偽りは異なります。偽りは避けるべきですが、嘘は避けなくともよい場合があります」

「どう云うことだ?」

「小生の吐く嘘は想像の一端を成しています。嘘の受け入れられない場所には、創造の草木は芽吹かないでしょう」

「あんたが嘘を言っているのか、それとも偽りを言っているのか分からないな」

「少なくとも今は嘘を申しておりませんよ。あなたをそう云う方法でからかっても、何の得にもなりそうにありませんから。喩え、小生がそうとは知らずに偽りを言っていたとしても、あなたが不利益を被ることはないでしょう。聡明なあなたは偽りには敏感でしょうから。それに、小説家は論理学的な命題の真偽に基づいて文章を書く必要はありません。あなたの仕事でも、被告人に罪がないことを示す必要はなく、罪があるとは言えないことを示すのでしょう」

「まあ、そうだな」獄は自分のリーゼント頭に手を突っ込む。狐に摘まれたような感じもするが、間違ってはいない。但し、レトリックで誤魔化されているのかも知れないが。

「寧ろ私たちは、そう云った論理体系に於いて導出不可能な文についても、論じることが出来ると云う、或る種の自由を持っています。それを生かさずにどうして人生を謳歌出来ましょう」

「そいつは個人の価値観に依るな」

「あなたは違うのですか?」

 獄は少々考えた。獄は自分の能力とその可能性を信じている。自分を信用することは、被告人を信用する為にも必要なことだ。勿論、信用するに値しない被告人も居る。そう云う仕事であっても、金を貰って引き受けるからには完遂させる。それがプロと云うものであり、そうすることで、獄の自分への信用度を更に高めている。そうして、其処には夢野の言う「自由さ」が必要だった。自分自身を信用することは、自己言及文のようなパラドクスを内包しているからだ。

 ――だが、俺はあいつに負けた。直接対決して負けたのだ。

 神宮寺寂雷に負けたと云う事実は、一時的にしろ獄の自信を打ち砕き、獄自身の可能性を語る「自由」を論理の迷宮へと閉じ込めた。

「……そうかも知れない。だが、そうでないかも知れない」獄は少し俯いて答えた。

「あなた、何事も白黒はっきりさせるタイプだと思っていましたが、なかなかどうして一筋縄ではいかない面倒な部分を持ち合わせていらっしゃる。これは褒めているのですよ。その分かり易い複雑さが、物語の主人公に魅力を与えるのです」

 ――お前こそ食えない奴だ。

「あんたの方は、なかなか分かり難い複雑さをお持ちのようで」

「それは褒め言葉として受け取らせて頂きましょう。褒められた序にあなたのことをもっと教えて下さい」

「あんたは一度俺に負けている。それにも拘らず、好き勝手に俺のことを小説に書くのは面白くない。……だが、そうだな、もう一度チャンスをやってもいい」

 夢野は「やはり、分かり易いお方ですね」と、くすくすと笑っている。「いえいえ、冗談です。まあ、嘘ですけれど。それで、何の勝負をするのですか」

 冗談と云うのが嘘なのか。即ち、俺は分かり易いということなのか。獄は腑に落ちない。まあ、よい。こいつを完膚無きまでに負けさせてやろう。獄は余裕の笑みを浮かべて夢野に言う。

「勝負方法はあんたに決めさせてやるよ」

 夢野は少し思案してから獄に尋ねた。「あなたは何が得意なのですか」

「俺の得意分野で勝負しても詰まらないだろう。俺が勝つに決まっているからな」

「では、何に興味がおありなのですか」

「興味か……」

「何がお好きですか」

「バイク……かな。だが、バイクで勝負するのか。あんたが運転出来るようには見えんが……」

「では、どのような食べ物がお好きですか」

「肉類だな」

「では、嫌いな食べ物は」

「……おい、これは尋問か。あんたの小説のネタにする気だろう」

 夢野はさも可笑しそうに笑い、「利害が一致しませんね。小生はあなたと勝負することには全く興味がありません」

 今日は何ともついていない日だ。こんな奴に捕まるなんて。夢野は弁護士である獄よりも弁が立つ。詭弁ではあるが、どうしても彼の言葉に耳を傾けてしまう。

 何時の間にか月が出ていた。もうすぐ消えそうな、非常に細い三日月だった。

 ――月に手を伸ばせ。喩え届かなくとも。

 獄は自分が座右の銘にしている、ロックミュージシャンの言葉を心の中で呟いた。

「……あなたは、あなたが見ていない間にも月が存在していると考えますか」

 夢野が獄に問うた。

「アインシュタインか? 量子論的には物理理論の客観性は否定されたんじゃなかったか」

「その量子論自体も物理理論の一つです。『ウィグナーの友人』はご存知ですか」

「いや」

「量子論的状態が無限に続いていくことを示したパラドクス問題です。それに、相対主義を突き詰めていくと、我々は沈黙せざるを得ない」

「何が言いたいんだ」

「私たちの扱う言葉には、その沈黙を超える力があるのだと信じたいのです」

 夢野は獄を真直ぐに見詰めた。透き通るような瞳だった。

 神宮寺に負けて、獄は或る種の言葉を失ったも同然であった。自分を信用しないと云うことは、自分自身の言葉を信じないと云うことだ。

 ――沈黙を超える力か。

 この男は真理の存在は証明不可能かも知れないと考えている。だが、その一方では真理の存在を信じている。彼の言う「自由」とその怜悧な眼差しを以て、それを見ようとしているのだ。

「なあ、何処か静かなバーにでも入るか」

「お酒は飲めないのです。既に此の世に酔っておりますから」

「じゃあ、この儘こうして月でも眺めるか」

「そうですね。あの綺麗な光が消えないように」