[青幻] 藪の中、燕子花の池
2次創作2024.06.03 23:47

青年は南方の戦に参加する為、山中の険しい道を下っていた。街道沿いを行けば道中楽ではあるが、幾分遠回りとなる。軍場まで十日の距離を、野宿をしつつ半分程やって来た。此処からは土地鑑のない山道が続く。山林から開けた場所に出て、方向を確認すると、眼下に人里が見えた。丁度田植えの時季であった。

青年は戦の状況や南への道を訊ねる為に、一旦麓まで下りることにした。傾斜が緩くなり、あと少しで村の畔道に抜けるという処で、微かな涼風が青年の頬を撫ぜた。其方を見遣ると、藪の向こうに少し薄昏い湿地があり、その先に人と思しき気配があった。どうにも気になり草木を掻き分け這入っていくと、不意に数え歌が聞こえてきた。か細く優しい女の声で、切なく哀しげに歌われている。青年は吸い寄せられるように声の方へと歩を進めた。

其処は一面に燕子花が植えられていた。脇には小さな池があり、木漏れ日を受けて鏡のように光っていた。その池の畔に、藤色の小袖を着た女が背を向け座って居た。青年が近寄ると、歌が止み、女が振り向いた。これ迄見たことのない程の美しい女であった。

黒真珠のような大きな瞳が此方を見詰めていた。透き通らぬばかりの白い肌や光の加減で輝く柔らかい髪、ほっそりとして靭やかな四肢と腰、華奢な体躯、それらから構成される女の姿が燕子花の群の間から見えた。空気が冷え、まるで此の世のものとは思えぬ匂いが立ち籠めていた。これから戦場に赴く青年にとって、この刹那、この空間は既に幽世の如く感ぜられたのであった。

青年は何か言葉を掛けようとしたが、一言も発せずに立ち止まっていた。

――この女子は本当に人であろうか?

女はそのような青年を少々眩しそうに見詰めた後、微笑みながら会釈をした。木々の間から僅かに射し込む光が、燕子花の葉や花冠に反射して、女の瞳に映り込んだ。彼女の両の眸は、紫色を僅かに滲ませ、翡翠のように光を帶びた。そうして女はゆっくりと立ち上がった。

その得も言われぬ美しさに青年は息を呑んだ。艶やかに佇む姿とは対照的に、彼女の下半身の衣は泥で汚れていた。然しながら、それは恰も肥沃な土から養分を吸い上げ、咲き誇る花の根のように見えぬこともなかった。湿地の中の燕子花の如く、女は静謐の中でひっそりと咲いていたのであった。

「南へ行かれるのですか」

細く柔らかだが、芯を感じさせる声でそう問われた。

「何如にも」

青年が肯定すると、女は哀しそうに足元の燕子花へと視線を落とした。青年は女がそのような表情にさせたものに就いて思いを廻らせた。然し、どうであれ自分に何が出来ると云うのだろう。青年は兵士であり、これから人を殺めるやも知れぬし、自分が殺されるやも知れぬ。だが、それは己が正義の為である。今此処ですべきことは決まっていた。

青年は女に言った。

「もしお分かりならば、戦況と道をお訊ねしても宜しいか?」

「生憎私は戦の仔細を存知ませぬ。道ならば街道沿いを行くのが分かり易いでしょう」

「それでは間に合わぬ。多少分かり難くとも近い方がよい」

「この山は余所者を嫌います。私が山道をご案内致しましょう」

見れば女の腹は少し膨らんでいた。女子を連れ歩くのでは足が遅くなる上、妊娠しているのであれば更に気が進まなかった。

「里の他の者には頼めぬだろうか」

「この村で南への道を知っているのは私だけにございます」

「左様か。だが一応、村へは行ってみる」

女は左様でございますか、と自らの腹を撫ぜた。

「この先の藪を抜ければ、村外れの畔に出ます。そこから東へ二町、南へ三町の処に村長の家があります。この時季ですから、皆は田に出ております。適当の者に訊ねれば、お知りになりたいことのうちの幾つかは分かるでしょう」

「相分った」

「もし私に依頼されるのであれば、又此処へお出で下さい。戌刻までは居ります故」

そう言い、女は少し腰を屈め、愛おしそうに燕子花に触れた。

「貴女は此処で何をしているのだ」

「私は、この子の父親の帰りを待っているのです」

女は腹に両手を当て、花を見詰めながら答えた。

「……左様か」

「はい」

青年は俯いた儘の女に背を向け、藪の中から出ていった。

 

女の言った通り、林の先は村の北西に位置する水田であった。初夏の陽射しが強く照り付けていた。木陰の多い山道を歩いてきた青年は、一瞬眩暈を覚える程であった。田を囲む山々の瑞々しい緑は空の青さに映え、漲る生命の存在を感じさせた。それは又、村中の水田に鏡のように映し出され、愈々碧玉のように輝いている。風はなく、人が居なければ水面に波は殆ど立たない。本物と見分けの付かぬ程であった。だが、水中の方の山は静かに沈黙していた。其処には何か底知れぬものが、確かに存在するような気がした。それは或る意味では不気味にすら思えることであったが、戦に臨む青年にとっては何らかの啓示にも似ていた。

――俺は戦場で生き残るに違いない。

然しそう思ったのは一時のことであり、啓示とやらは周囲を消失させる程の白い光の中へと霧散していった。

――生き残れるなどと、全く俺はどうかしている。死の覚悟なくして一体何を為せよう。

再び青年の全身は緊張で包まれた。呼吸を意識し、腰の太刀の鞘に左手を添え柄に右手を掛けてみる。刀身と一体になろうとする、平生の感覚が呼び戻された。――問題ない。青年は息を細く吐き出し、周囲を見遣った。村人達が至る処で田植えをしている。苗が一面に植えられてしまえば、もうひとつの世界は消滅し、来年まで人の目には見えぬ状態となる。それはこの時季に一刹那顕れるだけの紛い物に過ぎなかった。

太刀から手を離したとき、ふと燕子花の林の中での女の様子が脳裏に蘇えった。女の姿と彼女の纏う空気は、たった今垣間見えた水鏡の世界のものに似ていた。だが、然し――気の所為だ。現実は現実、水鏡は水鏡である。交わることもなければ、自分が水鏡の中に存在することもない。青年は我に返り、戦の情報を集め始めた。

村長の家へ向かいながら、出会う村人に声を掛けていった。足軽具足を身に付けながらも、見事な太刀を佩いている青年を見て、村人達は警戒しながらも彼に応じた。

「余りよい話はありませんな。閑農期でもないのに何人も借り出されており、田植えの手が足りませぬ」

既に若者の半数以上が北軍として徴兵されているとのことであった。青年はそこで漸く、田圃に居るのは老人や女子供の多いことに気が付いた。

村人の一人が怖ず怖ずとした様子で青年に訊ねた。この男も壮年を大分過ぎていた。

「もし、お武家の方……」

「俺は武士ではない。農兵だ」

「ですが、その刀は……」

「これは俺の家に代々伝わるものだ」

青年がやや不機嫌に答えると、村人は萎縮した様子となった。青年は話題を変え、

「南へ行く為の近道を知っている者は居らぬか」

「街道を行くのがよいかと思われますじゃ」

「山道を行く方が近いと聞いたぞ」

「道を知っている者が居りませぬ。誰から聞いたのですか」

「燕子花の池に居た女だ」

「あの女は気が触れております故、その言葉を信じてはいけませぬ」

「そうは見えなかったぞ」

村人が言うには、彼女の夫は数カ月前に南の戦場へと向かい、その儘帰らぬ人となったらしい。

「夫が死んだと云うのに、信じず帰りを待って居りますのじゃ。あの暗い池の畔で」

「何故あのような場所に居るのだ?」

「俺達は詳しいことは知りませぬ。村長にお訊ねになって下せえ」

村長の家はそこからすぐの処にあった。庭先に居た娘に伝えると、青年のことを事前に村人から聞いていたのか、村長はすぐに応対してくれた。土間で煮炊きをしている娘の視線を感じながら、青年は床上へと案内された。

「むさ苦しい場所で申し訳ないが、勘弁して下され」

「いいえ。私の村では板敷の間のある家はありませぬ。茅束の上に蓆を延べています」

「お武家様でなく、私達と同じ農民らしいですな。その太刀はどうされたのですか」

「これは私の父が先の戦で手柄を立てた際に、領主様から賜ったものです」

「左様で。それにしても立派な太刀ですな」

太刀は青年の父と、青年自身の誇りである。褒められて悪い気はしなかった。

南の戦場までの道と道案内が可能な者を訊ねると、現在村に残っている人間で詳しい者は居ないと村長も答えたが、暫く思案した後に言い直した。

「それなれば、丁度よい案内人が一人だけ居りまする」

「燕子花の咲く池に居る女子ですか」

「左様」

「彼女は気が狂っていると村人に聞きました」

「ですが、山道くらいは案内できよう」

「子を宿している体では無理でしょう」

「腹はまだそう大きくなっておらぬし、調子も安定している。大丈夫でござろう」

村長を含め、此処の村人達はどうも女を疎んじている様子であった。

「あれは二週間程前に、南方からこの村にやって来たのです。夫が戦から帰って来ず、自分の村も焼かれてしまった。どうか夫が帰って来るまで、此処に置いて欲しいと言ってな。そうしてあの林に籠って燕子花ばかり数えて居る。どうにもまともな頭とは思えぬ」

「夫君は亡くなったと聞きました」

「そうかも知れぬし、そうでないかも知れぬ。が、死んだと考えるのが妥当でしょうな」

青年は女の哀しそうな顔を思い起こした。

「気の毒なことだ。夫君に死なれた上に自分もおかしくなってしまうとは……」

青年は女が狂人とは積極的に思えなかった。だが一方で、彼女ほど美しければ、狂っていても仕方がないとも思えた。いずれも根拠のないことであった。

「気は触れているが、道は知っている。此処へ来るときに、南軍に見付からぬよう山道を通ったと言っていた。まあ、信じるか否かは貴方次第だ」

 

青年は再び燕子花の池に来た。戌刻は疾うに過ぎていたが、女はまだ此処に居るような気がした。昼間の時間が長い季節とは云え、とっぷりと日の沈んだ後であった。代わりに星が天に満ちており、鬱蒼とした林の中から見上げると、天の光と地の闇の対比がよく分かった。西の方に一際明るい星と赤く暗い星、東の方には真紅の大きな星が見えた。

池の水面には星の光が映っており、まるで池自体が夜空のようであった。周囲の燕子花はその光に僅かに照らされていた。青や白の仄かな明かりの中で、女は昼間と同じ様に座り、僅かに俯き花を見詰めていた。宛ら此処から離れられぬ池の精であった。その瞳は空と池の星を宿し、燕子花を浮び上がらせているように感ぜられた。

青年が近寄ると女は立ち上がって頭を垂れた。農民とは思えぬ程の優雅な挙措であった。女の日に焼けていない肌は青白く透け、絹のような髪と衣は夜風に靡いていた。

「よくお戻り下さいました」

女の言葉に青年は何処か奇妙な感覚を抱いたが、燕子花を掻き分け彼女の側へと歩いていった。

「待っていたのか」

「再び此処にいらっしゃることは分かっておりました」

女は嫣然として青年を見上げた。

「これからすぐに出立されますか?」

「ああ、そうしたい。だが、その前に訊きたいことがある」

「私に答えられることならば」

「お前の夫はまだ軍場に居るのか」

「いいえ。本当は、夫は帰って参りました」

奇妙な感じが愈々強くなった。女は青年を見詰めた後で、誘導するように視線を傍らの燕子花へと落とした。

「私の夫はこの中に居るのです」

そう言って一面に咲く花の群を見渡した。

「揶揄うでない」

青年は思わず語気を強めて言った。然し、女は青年の声がまるで聞こえぬかの如く先を続けた。

「私の夫は、これらの燕子花のうちの何れかなのです。ですが、私には何れがあの方なのか分からないのです」

「嘘を云え」

青年は女の正気を疑った。彼女は自分の夫が燕子花になっているのだと言う。そうして自分が夫を探し当てたときに、本当に彼が帰って来るのだと信じている。村人達の言う通り狂っているに相違なかった。青年は怒りを収め、女を哀れんだ。この女子は、帰らぬ夫を永遠に待ち続けるのだろう。

「何れが本物か分かるまで、待つのは辛くないか」

女は不思議そうに青年を見た。

「貴方様にも、貴方様を待っている人が居らっしゃるでしょう。その人には、自分をずっと待ち続けて欲しいとお思いになりませぬか」

「そのような者は居らぬ。俺は独り身だ」

「貴方様の方こそ、嘘を仰っておられます。貴方様には妻子があり、彼等は今も貴方様を待ち続けております」

「馬鹿な」

やはりこの女は気が狂っている。まともに遣り合っても仕様がない。青年は踵を返し、立ち去ろうとした。だが、続けて女は言った。

「貴方様は北軍に捕えられ、拷問を受けて何も彼も忘れてしまったのです」

青年は振り返ってまじまじと女を見た。

「何を云う。俺は北軍の兵士だぞ」

「いいえ。貴方は南軍のさる武将のご子息にあらせられます。その太刀は、初陣を祝してお館様から直に賜わったものにございます」

この太刀は青年の尊敬する父がその手柄によって得た家宝である。軽々しく偽りを述べられ、女に対する憐憫の情が消えた。代わりに怒りが再度込み上げてきた。

「黙れ。これは父上から譲られたものだ」

青年は太刀柄に手を掛けて脅そうとしたが、女は平然と間合に這入って来た。眼前の小柄で華奢な存在に、危険な気配を感じた。不気味であった。さては本物の池の精か妖怪であり、自分を騙し殺そうとしているのだと思われた。

「それ以上謀ると許さぬぞ」

女は愈々自分のすぐ側まで寄って来た。太刀を抜こうとした。然し、何故か体が動かない。全身から冷や汗が吹き出した。

「おのれ、あやかしめ」

「私はあやかしの類ではございませぬ」

女は白く細い指先で、青年の額に触れた。冷んやりとした感触のするその場所には、大きな傷跡があった。

「この傷が貴方様のお顔に付けられたとき、貴方様は大事な人のことを忘れてしまったのです」

何故この村の女が、ここまで自分のことを知っているのだろう。そこにひとつの、或る予感が生じていた。女の指が額から頬を滑り、軈て名残惜しそうに離れていった。

「時間がないのでしょう。続きは歩きながらお話しします。さあ、早く参りましょう」

女は青年の腕を引きながら言った。

「お前を信用してよいのか?」

「疑いを掛けている本人に、お訊ねになられるのですか」

女はさも可笑しそうに笑った。

「お前の夫がこの中に居るのならば、お前は此処から離れられぬのではないか」

「いいえ。もう問題ありませぬ」

青年の漠然たる予感は明瞭な形を取りつつあった。

「よくぞ、お帰り下さいました。――旦那様」

花唇がそう告げた。女は頬を僅かの紅に染めていた。青年を見上げる瞳に星の光が宿った。

「俺が……」

風が吹き、燕子花が揺れた。

 

新月に近い子刻の闇の中を、女の跡に付いて峻厳な山の道を登っていた。見上げれば、木々の葉の合間から、溢れる程に星が瞬いていたが、足元は暗かった。大小様々な石が転がり、泥濘んでいる場所も多かったが、女は慎重に足場を確認しながら歩いていたので、彼女の歩いた跡を踏んで行けば困難ではなかった。身重の女の足取りは意外な迄に軽かった。これならば問題なく軍場へ行ける。――然し、自分が案内されるのは、果たして軍場なのか。それとも南軍の城か宿営地に連れて行かれるのか。

――俺はこの女を信用しているのか。彼女が俺の妻だと云うことにも納得するのか。

女の言う通りのような気もした。自分は本当は南軍の武将の息子で、剣術に於いては右に出るものなしと謳われた腕前を持つ。この度、父より太刀を賜わり一軍を率いて初陣したが、ある戦場にて敗戦し北軍に捕縛された。何日にも渡る過酷な拷問によって、苦痛と絶望の末に記憶を失い、北軍の兵卒となっていた。そうして、この女は自分を追って北軍の領地の村に来た。……

――だが違う。青年は太刀を見た。握っている柄の中にある茎に、銘が切られていることを知っている。毎回刀の手入れをする際に目にしているが、然程気に留めたことはない。名のある刀工によるものであろうか。拵えも見事なものだと思うが、その価値はよく分からなかった。平素は田畑を耕している足軽であるから、太刀のことなど知る由もない。だが、太刀の扱いは父から教わった。父は息子の立身出世を望んでいた。自分も戦で手柄を立て、足軽から足軽頭へ、更には有力な武将に仕え、一廉の侍になることを幼き頃より夢見ていた。

それらの記憶と女の述べる事柄は相異なるようでいて、同一のもののようでもあった。互いに矛盾していたが、各々は無矛盾であった。個々の事柄は全てに於いて対応が付くように思われた。然しながら、意味が異なっていた。

自分は北軍の農兵か、南軍の侍か。この太刀を受け取ったのは父からか、お館からか。自分は独り身か否か。この女子は此処の村人に過ぎぬのか、それとも自分の妻か。一体、彼女の夫は戦で死んだのか、それとも正に今、戻って来たのか。

霞の掛かった脳裏に、不意の情景が湧き起こった。

   *

平素のように山中で剣の鍛錬をしていた。一刻半素振りを繰り返した後で、一休みをして汗を拭おうとした処、二間先の木の陰に人影があることに気付いた。いつから居たのか、領地にある村の娘である。先日から剣を振っていると見掛けるようになった。今になって気配を察するとは、自分もまだまだだと思っていると、娘は恐る恐るとした様子で近寄って来た。農民とは思えぬ程の品のある娘であった。粗末な衣や体に付着した泥すらも、彼女の容姿や肌の美しさを引き立てていた。娘は遠慮がちに手拭いを差し出した。手拭いを受け取り汗を拭いていると、今度は握り飯を差し出された。礼を言ってそれも受け取ると、娘は控えめに微笑んだ。それ以来、鍛錬が済むと娘から手拭いと握り飯を貰い、次第に言葉を交わすようになった。非常に聡い娘で、家から持ち出した兵法書を見せて文字を教えると、すぐに読み書きが出来るようになった。そうして、青年が和紙と筆を与えると、娘は一つの物語を綴り始めた。……

   *

――これは現実の情景であろうか? 娘の姿はこの女と瓜二つであった。青年は前を行く女の白い項を見詰めた。彼女のその美しい肌に自分は触れたことがあるのだろうか。ふと足を止めた。女が振り返り、どうなさったのですか、と問うた。この表情、この声、この唇に覚えはあるのか。

   *

鍛錬を終え、いつものように娘と語らっていたとき、ふと或る想いが生じた。話すのを止め、娘の顔を凝と見詰めた。どうなさったのですか、と不思議そうに娘は言った。華奢な肩と細い腰を引き寄せ、その花弁のような唇を吸った。娘は嫌がることなく青年に身を委ねていた。お前のことをお館様に話す、俺の許へ来てくれぬかと、娘に伝えた。……

   *

「いや、何でもない。まだ先は長い。少し休むか」

見れば然しもの女も疲労した様子であった。泥濘みを出て、見晴しのよい場所へ行き眼下を見渡した。墨の海に沈む、黒々とした麓が見えた。遠くに鏡のようなものが光った。女の居た燕子花の池だろうか。この闇夜でも光ることがあるのか。

娘との祝言の日の屏風には燕子花が描かれていたような気がした。

   *

「祝言でも挙げてから行けばよいものを」

太刀の手入れをしていた筈の父が、不意に呟いた。唯の独り言であろうが、青年は振り返ってそれに応えた。

「相手も居らぬのに、どうにもなるまい」

見れば、父は既に懐紙を口から離し、刀身を鞘へ収めていた。

「親父は孫が欲しいのか」

「さあな。お前はどうだ」

「然して欲しくもない。これから戦へ行くと云うのに、道理に合わぬ」

そうだな、相手が決まらぬのに嫁も祝言も孫もないな、と皮肉を返された。いつもの気紛れかと思い、旅の支度をしようとすると、父は言葉を継いだ。

「では、代わりにこれをくれてやる」

そう言って、太刀を持ち上げた。……

   *

――果たして何方が真実なのか。

「お前は一体、俺を何処へ連れて行く積りなのだ」

唯の独り言であったが、女が応えた。

「何処へでも――。事実と真実は異なります。貴方様の信ずるものが、真実でございます」

女は哀しそうに微笑み、崖からせり出している岩の上に腰掛けた。

「ですが、貴方様をお救いするにはこうする方法しか、私には思い付かないのです」

その言葉の意味を測り兼ねていると、女は言葉を継いだ。

「貴方様は何処へ行きたいのでございますか。それとも、行きたくないのでございますか」

殆ど無意識に答えた。

「俺は、行かねばならぬ」

そのとき、強風が吹いた。女は均衡を失ない、岩の縁にしがみ付いた。その細い肢体を払うように、更に強い風が吹いた。青年は急いで女の腕を掴もうとした。が、その手は空を切った。さらに腕を伸ばした。青年の体の重心が崖の縁から出た。女の手に届いた。ふたりは闇の中へと落ちていった。




どうでもよいかもしれませんが、一寸だけ解説とお詫びを。
本文章は少なくとも4つの解釈が可能なように書きましたが、書いた当人としては、それら4つの解釈が〈同時に〉全て正しい、という1つの解釈を真として作文しました。
タイトルから分かるように、ある作品のオマージュ、読書感想作文となっています。
また、それら直接的な主題とは関係なく、間接的に主張したい事柄もありますが、これはまあ愚痴のようなもので、本当にどうでもよいことです。
最後に、文章と時代考証が非常に拙いのですが、申し訳ありません。平にご容赦を。
06.04 04:06 R